じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa

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[今日の写真] 今年の梅雨は中休みが長く、例年に比べてキノコの出現数が極端に少なかったように思う。グラウンドの隅でやっと、ドーム型1個を確認。



7月22日(日)

【思ったこと】
_10722(日)[心理]オーストラリア研修(その12)セラピーは目的か、手段か?(その7)行動分析はどう関われるか

 「セラピーは目的か、手段か?」という連載の最終回。今回は、行動分析学がセラピーの実施にどう関われるのかについて考えてみたい。

 すでに何度か指摘したように、ひとくちにセラピーと言っても、治療・改善のための手段として実施されるものと、それに参加すること自体に価値があり目的となりうるものがある。じっさい、オーストラリアで長年にわたり研修を積まれた福井県立大学社会福祉学科の舟木先生のページにも
【DTは】回想法、音楽療法、運動療法、陶芸療法、趣味活動、バス旅行など様々な手法が使われるがいわゆる「治療」という目的で実施されるのではない。個人が自己実現を感じ、自分の価値の向上を目的にプログラムが実施される
と紹介されていることから分かるように、今回取り上げているダイバージョナル・セラピーは、どちらかと言えば後者に相当するものと言える。

 方法論的にみて、行動分析学は、元来、前者についての検証、つまり、ある介入の有効性を実証することを得意としてきた。では、後者のような「自己実現」や「価値の向上」のためのセラピーにはどのように関わることができるのだろうか。

 最も求められると思うのは、7/17の日記でも述べたように、能動的な行動が適切に強化されるような随伴性を整備することではないかと私は思う。
  • 何かを「やってみて」、「よかった」という幸福感、達成感、充実感を味わうためには、「よかった」を行動の結果として具現しなければならない。
  • 老化や痴呆などによってクライアントが自力で結果の随伴に至らない状況にある時は、セラピストが何らかの結果を付加する必要がある。何をどのように付加するかを立案する必要がある。
  • また、「よかった」は、単発ではなく、累積的な価値を与える必要がある。これが向上感のもとになる。
例えるならば、自力でピアノの演奏をしたいと望むクライアントが居た時には、伴奏の一部を代行しつつ、そのリパートリーを増やしていくというのがセラピストの役割ということになる。



 強化の随伴性を整備するということは、結果を人工的に付加することだけではない。スポーツなどでは、ルールを変更することで、行動に内在する結果を変えることも可能だ。

 例えば野球において、バッティング練習技術の向上によって、今よりヒットが打ちやすくなったとしよう。もしそうなると、乱打戦によって試合時間が大幅に長くなり、ピッチャーも体力的に持たなくなるおそれがある。その場合、ベース間の距離を長くするとか、ツーストライクで三振にするとか、野手をもう一人増やすというようにルールを改正すれば、試合は円滑に行われ、守る側にも攻める側にも適度の「よかった」が随伴するはずだ。

 セラピーの場面で、既存のゲームのルールをクライアントのレベルに合わせて変更する工夫が求められる。例えば、7/4の日記の日記で紹介した中に、スクラブルゲームを実施している場面があった。このゲームがもし難易度が高すぎるのであれば、ある程度ヒントを出すとか、配牌の数を増やすなどのルール改善が必要になる。盤のマス目の数や得点の合算法を変えるなどの工夫もできるだろう。思考時間が長すぎて集団場面に適さない人が居れば、コンピュータを利用した類似ゲームを開発することも考えるべきであろう。このあたりに「強化」と「随伴性」をめぐる行動分析の視点が必ず活かされるものと思っている。

 次回は、「Reality Orientation」や「Validation」の問題を取り上げていくことにしたい。
【ちょっと思ったこと】

マインドコントロールの犠牲者を出さないためにも

[今日の写真]  金曜日の夕刻、生協食堂の前で3人ほどの男がアンケートを口実に勧誘をしていた。リーダーと思われる男性が携帯電話で「いま、対象者のN君が...」などと大声で話していたことから見て、宗教団体であることは間違いない。写真は、男二人が自転車に乗ってきた女子学生に話しかけるところだ。

 今どき、通行中に呼び止められても話に応じる学生は少ない。しかし、食堂前では自転車を止める時にどうしても立ち止まらざるを得ず、そのわずかなスキを狙って話しかけてくるのである。

 試験が終わりホッとした時期、おそらく「教養セミナー」やら合宿研修に誘いをかけているのだろう。マインドコントロールは洗脳とは違う。確固たる信念を持たない若者は、それまでの人生の誤りを指摘されると何も反論できなくなってしまう(=「解凍」のプロセス)。拠り所が無くなった者は、サクラを配置した集団場面で巧みに情報操作が行われると、あたかも本人が自由意思で判断していると思いこんでいるうちにカルト集団にはまりこんでいく。岡大でも、そのような団体の活動に参加したために勉学を半ば放棄、留年を繰り返したあげく卒業できずに除籍されてしまう学生が後を絶たない。

 大学という自由な雰囲気の中で、こうした勧誘活動を規制することはなかなか難しい。けっきょくは自己責任を確立し、安易に住所や電話番号を教えないこと、それ以前に、正体を隠した団体の口先ばかりのアンケートなど、相手にしないことが大切である。

 いずれにせよ、学生がこのような勧誘に惑わされてしまう一因は大学教育の不備にある。大学の授業やサークル活動の中で、人生や哲学の問題をクリティカルな目で考えていける機会が確保されていれば、わざわざ宗教団体主催のセミナーを受けに学外まで出かけていく必要は無いからだ。そういう意味でもFDの活動に真剣に取り組む必要がある、と決意を新たにした。
【スクラップブック】