じぶん更新日記

1999年5月6日開設
Y.Hasegawa
[今日の写真] 雨上がりの朝の大学構内。半田山に霧がかかり、手前の水たまりとセットになって尾瀬沼のような風景を楽しむことができた。なお、画面の中央左側にある樹木はセンダン。黄色いのは葉ではなく実。

1月17日(月)

【思ったこと】
_00117(月)[心理]ジュニア行動分析学のススメ(1):「好子、嫌子」は「快、不快」ではない

 卒論提出まであと2週間となった。私のゼミでは、行動分析学的視点から日常生活の諸問題に取り組む卒論研究が多い。そのこと自体はまことに結構なのだが、いざ、データを集計、整理し考察する段階になってみると、「好子」、「嫌子」といった基本概念について初歩的な取り違えが起こりやすいことが判明した。大学で3〜4年にわたって行動分析学を学んでもなお取り違えが生じるということは、単に勉強不足として叱りつけるわけにはいかない。ほんらい、こういう言葉は、一般の人々が自分や自分をとりまく人々さらには社会全般を考えるために活用してほしい概念である。そこに混乱が起こるとすれば、それは概念規定自体に責任があると言わざるを得ない。

 そこで、この連載では、既成の行動分析学の用法をいったんご破算にしたうえで、その本質を変えないことを前提に、より簡素な概念再構成をはかることをめざしてみたい。この試みは、行動分析学の大改革をめざすというほど大それたものではない。亜流と言われるのも困る。あくまで、行動分析学の基本概念の理解を助けるための特別プログラムのようなものであると考えていただきたい。もちろん、それが非常にすぐれた概念構成になれば、neo radical behaviorism(新・徹底的行動主義)に発展できる可能性はもっているけれど....

 さて、行動分析学で最も頻繁に使われる概念の1つとして「好子(コウシ、positive reinforcerあるいは単にreinforcer)」と「嫌子(ケンシ、negative reinforcerあるいはaversive dondition)」がある【といってもこの訳語は『行動分析学入門』(杉山ほか、産業図書、1998年)で独自に採用された訳語。もともと、前者は「正の強化子」、後者は「負の強化子」と呼ばれていたものだが、ここでは新しい訳語のほうを仮に採用していくこととしたい】。

 行動分析学に対する誤解で一番多いのは、この「好子」や「嫌子」を生活体から独立して存在する「モノ」として固定してしまうことだ。しかし、好子は飴玉でも報酬でも賞賛でもない。上記の『行動分析学入門』によれば
行動の直後に出現すると、その行動の将来の生起頻度を上げる、刺激・出来事・条件
とされており、「行動の将来の生起頻度を上げる」という機能が定義に含まれていることに気づく。つまりどんなに高額の報酬を支払っても、それによって行動の維持・増加が観察されなければ、その報酬を好子と呼ぶわけにはいかない。「嫌子」も同様であり、例えば、授業中に騒いだ子供に「校庭一周」という「罰」を与えても騒ぐ行動が減らなければそれを「嫌子」と呼ぶわけにはいかない。

 このように「好子」や「嫌子」は、生活体の行動変化とセットになって定義される概念であるが、それらはあくまで「刺激・出来事・条件」であって、「喜び」、「満足感」、「達成感」、「安心感」や、「嫌悪」、「不満」、「失望」、「落胆」といった生活体側の「感情」反応を意味するものでは決してない。こうした「快」「不快」の概念は、快楽説(hedonism)という形で何度か心理学の世界にも登場してきたが、「快だから〜する」ということと「〜しているのは快だから」との区別を明瞭にすることが難しく、因果的説明としてはトートロジーに陥る恐れがある。

 では、なぜ長年行動分析学を学んできた卒論生でも取り違えが起こりやすいのだろう。どうやらそれは、「好子」「嫌子」という定義そのものが招いた混乱ではないかと最近思うようになった。「刺激・出来事・条件」という生活体から独立して定義、かつ操作できる事象と、生活体の行動変化を観察して初めて知ることのできる機能を1つの概念の定義に含めてしまったことが混乱の最大の原因ではないかということだ。そこで、次回以降、これらを完全に切り離す形で概念的枠組みを再構成したらどうなるか、という思考実験を試みてみたいと考えている。
【ちょっと思ったこと】
【スクラップブック】
【今日の畑仕事】
夕食後にレタスを収穫。