じぶん更新日記1999年5月6日開設Y.Hasegawa |
我が家のクリスマス風景。子どもたちが成長して手伝うようになってきたこともあって、料理も飾りも年々豪華に。 |
【思ったこと】 991224(金)[一般]「あいつはマスコミ嫌いだ」という風評について考える このところ、殺人事件や誘拐事件が立て続けに起こったこともあって、この日記でワイドショーやマスコミの取材姿勢について批判的な意見を述べることが多かった。そのせいもあったのだろう。、お互いを更新する掲示板のほうで、ジャーナリストご出身で情報産業論やメディア論をご専門とされている赤尾さんのほうから はせぴぃさんのプレスへの対応および批判の記述をみていますと,「マスコミぎらい」という風評がたつのも仕方がない部分もあるのでは(^^)というご指摘をいただいてしまった。赤尾さんごのご趣旨は私を「マスコミぎらい」と決めつけたものではなく、むしろ「もう少し温かい目でプレスに接してあげてくださいね(^_^)」というところにあったわけだが、今回は、そのことから日記ネタのヒントを得て、「マスコミ嫌い」と風評がたつこと一般について考えを述べてみたいと思う。 まず、一般に「マスコミ嫌い」は、大きく分けて2つの意味を持っているようだ。
このうち1番目の意味に限って言えば、私自身は確かに「マスコミ嫌い」の傾向が強まりつつあると言える。その大きな理由は、やはりインターネットが普及し、マスコミを媒介にしなくても、自分の意見が自由に公表できるようになった点にある。 昨年7月8日の日記にも述べたように、取材では私自身の意見を正確に伝えてもらえないことが多い。極端な場合、記者が最初から「回答」を用意していてそれに同意を求めるだけという場合もある。そういうことに手を貸すよりは、こういうWeb日記などで文字数や締切などに束縛されずに自由に意見を述べたほうがよっぽど効果的だ。かつては私自身も、新聞の投書欄でお世話になったことが数回あるけれど、今の時代、そういう形で掲載してもらうことには何の魅力も感じない。現在の状況が激変しない限り、投書欄や論壇のようなところに投稿するつもりは全くないことを明言しておきたい。 2番目の、「マスコミに対して批判的な意見を継続的に展開する人」を「マスコミ嫌い」と呼ぶことについては私は基本的に賛成できない。少なくとも筋道を立てて主張を展開している人であるならば、それぞれの論点について具体的な論拠があげられているはずだ。もし反論があるならば、発言者を攻撃するのではなく、個々の意見の具体的内容に対して批判をしなければならない。ところが「あいつはマスコミ嫌いだから」というレッテルを貼ってしまうことは、個別的な反論を回避して、 あの人は、はじめに「マスコミ嫌い」という感情ありき。そこで、事あるごとに、マスコミに不利な材料だけを持ち出してきて、その枠組みの中だけで通用するロジックで批判を展開しているにすぎない。という形で、意見ではなく発言者の姿勢のほうに批判の矛先を向けてしまうことになるのだ。これではもはや生産的な議論は起こり得ない。 もちろん世の中には、まさに上に述べた通りの「○○嫌い」も居るだろう。しかしそういう感情に由来した「攻撃のための攻撃」にすぎない意見などは反論してもしようがない。少なくとも私だったら、そういう嫌悪感情先行型の意見などは無視してしまう。 いろいろ書いてみたが、私自身は2番目の意味では断じてマスコミ嫌いではない。いつもお世話になっているし、期待もしている。だからこそ、たまには、コマゴマとしたことで批判的意見も述べてみたくなるのだ。このほか、12月2日の日記にも述べたように 私自身の日記では、今回に限らず、問題点があると感じた部分だけをピックアップして論じることが多い。執筆時間の上からもこれはやむを得ないことだ。話題にとりあげないことがあるとしたら、それは問題点として受け止めていないか、その問題に無関心であるかいずれか。というやむを得ない事情もあることも理解してほしいと思う。というか、この日記にも「×月×日のNHK特集に感激した」とか、「××新聞の×月×日の記事に書かれてあることに心を動かされた」という記述は結構あるはずなんだが...それが「マスコミ好き」という印象を与えないのは、誉め言葉が下手なせいだろうか。 | |
【ちょっと思ったこと】
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【本日の畑仕事】
草取りと豌豆の支柱立て。夕食後にチンゲンサイとレタスを収穫。 | |
【スクラップブック】
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