じぶん更新日記

1999年5月6日開設
Y.Hasegawa

[今日の写真] 岡大構内、座主川沿いのモミジ。

11月30日(火)

【思ったこと】
991130(火)[心理]2000年問題を人間行動の面から考える(2)「どうせ2000年問題が原因やろ」と思いこむ危険

 昨日の日記の続き。今回は西暦2000年を迎えるにあたって、コンピュータではなく人間側の行動が影響を及ぼす可能性について考えてみたいと思う。

 11/30のNHK「クローズアップ現代」でも取り上げていたが、2000年問題には、「コンピュータ自体のトラブルが引き起こす2000年問題」のほか「2000年問題に対処するための人間行動が引き起こす2000年問題」というものあるという。例えば元旦前後には、電力需要の急激な低下が起こるかもしれないと言われている。これは、通常は年を越して運用していた電車とか電気を大量に使う機器がいっせいに運転を停止することによって生じるもの。これによって供給が過剰となり、電圧や周波数が不安定になる恐れがあるという。まさに「2000年に対処するための行動が引き起こす」可能性のあるトラブルだ。東電では揚水発電で需要低下を防ぐという話だが、それだけで乗り切れるものだろうか。このほか、水道の供給が停止することを恐れて、大晦日に皆が水を貯め始めたら、水圧が低下して供給不可能になる。とにかく流言には惑わされないことが大切だろう。

 さて、2000年問題では危機管理が大きな問題の1つとなっている。その際に気をつけなければいけないのは、2000年1月1日に機械的な警報が発信された時にどう対処するかという問題だ。

 そもそも警報というのは100%信頼できる情報を伝えるとは限らない。例えば、私の勤め先でもごく稀に火災報知器が鳴ることがあるが、音が聞こえてきた時に最初に思うのは「どうせ回路が故障して誤作動を起こしているのだろう」ということ。ホンマに火事だろうとは思わない。じっさい、それが誤作動であることが何度も伝えられると、いわゆる「オオカミが来たぞ!」とウソをつく少年と同じで誰も信用しなくなってしまう。先日の東海村臨界事故でも、事故発生直後に一部の感知器が異常を伝えていたにもかかわらず、「危機の伝達」を後回しにして「機器の点検」に手間取ったという話があったと聞いている。2000年1月1日に、本当に事故や災害が起こった時に、「どうせ2000年問題やろ」という形で対処が遅れる恐れはないのだろうか。

 少し古い信号検出理論を持ち出してくるならば(98年5月15日の日記参照)、火災報知器が鳴った時の対処には、「本当に火事が発生&適切に対処」(ヒット)、「本当は火事無し(誤作動)、にもかかわらず避難や消火活動を始める」(フォールスアラーム)、「本当は火事無し、火災報知器が誤作動だと判断して何もせず」(コレクトリジェクション)、「本当は火事、誤作動だと思いこんで何もせず」(ミス)という4通りのパターンが起こりうるものだ。2000年問題があまり騒がれると、このうちの「ミス」をおかす恐れが強い。

 報道で伝えられる限りでは、2000年問題への対処は、上述の火事の例にあてはめるならば「本当に火事が起こったにも関わらず機械的な伝達が機能しなかった場合に、人手だけでとうやって対処するか」というタイプの準備であるように感じた。しかしこれでは「火事が起こった」という前提のもとでの行動を想定しているにすぎない。まずはその前提部分についての確認手段が確保されているかどうか、本当に火事であった場合と誤報であった場合を住民が信頼できる形で伝達する手段が確保されているかという面にも注意を向ける必要があるように思った。
【ちょっと思ったこと】
  •  我が家ではこれまで火曜日の19〜20時は「ウンナンの炎チャレ」を見るものと相場が決まっていたが、このところ19時半になると子どもたちが「レレレの天才バカボン」(TV東京系)にチャンネルを切り替えるようになってきた。

     「バカボン」と言えば、私が大学生の頃に人気のあった漫画だ。かれこれ四半世紀が過ぎており、私の世代が「のらくろシリーズ」、「ロボット三等兵」、「冒険王ダン吉」(記憶に頼っているので、いずれもタイトルは不確か)を見るのと同じぐらいの古典ということになる。なぜ今頃こんな漫画が復活してくるのだろうと妻もいぶかしがっていた。

     この漫画の面白さは、バカボンのパパによる現実の社会では決して起こし得ないような型破りな行動、既成概念も倫理も社会規範も物理法則もすべてぶち壊してしまう奇想天外な展開にあるようにも思う。この日の話でも、「穴を掘っていたら鉄管にぶちあたる→のどが渇いたのでつるはしで穴をあけて水を飲もうとしたらガス管だった→火花が引火してガス爆発」とか、穴から首を出していたらローラーにつぶされてぺちゃんこになったとか、地下鉄の線路に飛び出して胸に車輪の後がついた、など、現実だったら犯罪行為や即死事故になるような展開が続いていた。これだけ現実離れしていると、真似をする子供もおらず、教育団体からクレームをつけられる恐れもないと思うほどだ。

     現実に起こり得ないことを描くいうだけなら「ドラえもん」も同様。但し「ドラえもん」というのは、あくまで現実世界の生活が主体になっていて、現実に不便をに感じている行動随伴性の一箇所だけをSFの道具で置き換えてみたら何が実現し同時にどういう不都合が生じるかを考えさせる「行動分析学的思考実験番組」という側面がある。そういう点では、「ドラえもん」は最後は必ず現実の日常生活に視線を向けさせるという点で教育的にも価値の高い番組であるように思える。この点、バカボンはどうなんだろうか。規則や時間に縛られた者たちにいっときの解放感を与える娯楽番組なのだろうか。
【本日の畑仕事】
レタスを収穫。
【スクラップブック】