じぶん更新日記

1999年5月6日開設
Y.Hasegawa

[今日の写真] 帰りの新幹線の中から富士山がくっきりと見えた。

11月21日(日)

【思ったこと】
991121(日)[日記]オフミの報告はなぜ外見的特徴が先行するのか/富士山に登ることとオフミの共通性

 昨日の私のオフミ報告を読み返してみると、誰それがどの有名人に似ているかといったことばかりで、内面的な特徴には殆どふれていないことに気づく。もちろん「オフミで知り得た個人情報はネット上では公開しない」という不文律が制限を課していることも事実だが、それ以上に、「中身→外見」というオフミ独特の出会いが影響を与えていることも確かである。

 前にも書いたように、ふつう、初めての人に会う時は、まず外見、うち解けていく中でその人の中身が分かっている。それゆえ、「外見からは○○のように思えたが、話をしていると××というところがあって驚いた」というように中身に対する意外さが生じる。

 これに対して、Web日記を書いている人と初めて会う場合は、日頃から日記を拝見することによって、先にその人の中身を知る。後から外見がついてくるので、中身に対する意外さではなくて「外見に対する意外さ」が新鮮な感動を呼び起こすのではないかと思う。

 もちろん、Web日記を書いている人が日頃から心の内をすべてさらけ出しているわけではあるまいが、だからといってオフミの時だけ本音を語るとも思えない。アルコールが入ると本性を現す場合もあるけれど、単に酔っぱらって別人格に変身してしまう場合もある。オフミの時に、相手の「公的に表明されている中身を知っていると見なすことは間違いではなかろうと思う。

 この感動は、存在やはたらきは知っているが生身の人間を知らないという意味で、「あしながおじさん」、「怪傑ゾロ」、「スーパーマン」、「遠山の金さん」などが正体を明かす時に感じる喜びと似たものがある。

 そういう意味では、オフミで何度も同じ人に会うと、単なる現実の知り合いに化してしまって感激が薄れてしまう恐れがある。たまたま帰りの新幹線から富士山がよく見えたのであえて例えてみるが、富士山に登ることについては「一度登らない○○、二度登る○○」という格言?が知られている。感動だけを大切にするならば、この格言?はそのままオフミに当てはまるものである。オフミをきっかけとして通じて知り合った人と継続的なお付き合いをすることに別の楽しみがあることを否定するものではないけれど...。
【ちょっと思ったこと】
  •  帰りの新幹線は、例によって、ひかり号自由席を利用した。東京駅では空席が残っていたが、新横浜でほぼ満員。名古屋からは立ち席の人がでるほどの混雑ぶりだった。
     そんななか、親子4人の家族連れが3人がけの座席を向かい合わせにして6人分確保し、3人掛けそれぞれの真ん中の席にコートやリュックなどを置いて長々と寝ていた。
     新横浜に付く前に子供が「どうするの?」と聞くと、母親は「聞かれた時に空けたらいいのよ」などと言う。結局、乗客たちはべつに空席に流れていった。
     名古屋では立ち席が出たものの、声をかけて座ろうという人は居なかった。米原で10人ほどの立ち席が出たところで、やっと2人分の席を空けた。声をかけられる前に自発的に空けた点だけがせめてもの救いだった。
     こういう家族をずうずうしいと言うべきなのか。それとも立ち席の人が空いているかどうかを尋ねるという権利を行使しないのが強化因になっていると言うべきなのか(少なくとも私が立ち席を強いられていたらゼッタイに確かめる)、その時たまたま読んでいた『自由論』(内山節、岩波書店、1998年、ISBN4-00-023328-9)に「個人の自由は、つねに個人の利己主義に転ずる可能性をもっていた」(p.43)とか、「『関係』の創造をめぐる動き」(p.59)などの記述と重ね合わせながらいろいろ考えるところが多かった。

     
  •  11/22朝のNHKニュースによれば、福岡市や東京都内で「100円バス」が好評をはくし、マイカーからバスに切り替えた人も居るとか。まことに結構なことだと思う。ちなみに岡山大学と岡山駅西口の間は、渋滞が無ければ車で10分ほどの道のりなのに190円。往復なら380円もかかる。この節約のため、駅から自転車で通学する学生も多い。100円バスを導入すればずいぶんと利用が増えるのではないかと思うのだが...。
【本日の畑仕事】
旅行中のため何もできず。
【スクラップブック】