じぶん更新日記

1999年5月6日開設
Y.Hasegawa
[今日の写真] 農学部前の櫂の木。10日あまりのうちに全体が紅葉し、見頃となった。赤から黄色への変化が美しい。

11月15日(月)

【思ったこと】
991115(月)[心理]「行動随伴性に基づく人間理解」その後(5):眺めることの意味と随伴性

 今週は大きな天文イベントが2つある。1つは16日早朝に見られる水星の日面通過。もう1つは18日の明け方に見られるしし座流星群だ(11/10の日記参照)、。このほか、15日に降り続いた雨のために、岡大構内では銀杏の葉がいっせいに落葉し、一面の黄色い絨毯を作っている。時計台前の紅葉も最高。まさに、「眺める」という行動が最高に強化される一週間が始まったと言ってもよいだろう。 そこで今回は、この眺めるという行動を強化する随伴性について考えてみたいと思う。

 まず、外界に働きかける諸々の行動の中では、「眺める」はきわめて消極的な行動と言ってよいだろう。他のオペラント行動一般のように、何かを変えるという結果を伴うものではない。からだもそれほど動くわけではない。非常に受け身的であることは免れない。それだけに、眺める対象が何であるかということが重要な意味をもつ。

 眺めることが強化的になるような対象は、生得的に規定される一部の刺激(性的興奮をもたらす刺激、可愛らしさを感じさせる丸っこい刺激など)を除けばすべて習得的に好子としての機能を獲得するものと思われる。懐かしいと感じる景色は、同じ景色のもとで思い出に残る体験を重ねることによって初めて形成されるものであるし、初めて見て美しいと感じる景色も、日常生活のありふれた景色との対比によってより際だったものとなる。そういう意味では、個人的な体験や文化的な影響から完全に独立した美というものはあり得ないように思う。

 天文現象の中には、観念的には珍しい出来事であっても、見た目にはまったくパッとしないというものもある。今回の水星日面通過などがまさにそれである。うちの息子などは「そんなもの眺めても何にも面白くない」とクールな反応を示していたが、じっさい、白い紙の上に映し出された太陽に黒い点を見たところで、レンズの埃や紙の上のシミと何ら違って見えるわけではない。小惑星、ごく暗い彗星、たまに見られる星食なども同様。これらは、宇宙という空間に対峙して天体と自分とのあいだの特殊な位置関係を観念的に意義づけないかぎり面白味のない現象に終わってしまうと言ってよいかと思う。

 天文現象に限らず、いろんな景色を写真で撮ったりスケッチを試みたりする人がいる(←あっ、私もその一人か)。こういう行動は、必ずしも正確な記録をめざしたものではない。めずらしい景色に出合った時、それに関わるための多様な行動を自発させ、擬似的でもよいから関わりに伴う随伴性を享受しようという慌てふためいているだけなのかもしれない。それを超える関わりを持てないところが人間の非力さであるとも言える。
【生活記録】
[水星観察]  上にも述べたように11/16の朝は、日の出と同時刻に水星の日面経過があった。前夜から望遠鏡を用意して観察に備えたが、ご覧のように雪雲からやっと日がさす程度。それでも一瞬、太陽像を白紙に映し出すことができた。太陽中心部に近いほうに黒点らしきものが見えたものの水星はどこにあるか分からず。探しているうちに雲がかかってしまった。
【本日の畑仕事】
雨と多忙のため一度も立ち寄れず。
【スクラップブック】