じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa
[今日の写真] クレオメ。ほんらい夏の花であるが、花期が長く、まだ咲き続けている株があった。和名は「風蝶草(フウチョウソウ)」。蝶が舞っているように咲いているためだろう。英名のほうは「spider flower」。日本語が蝶々で、英語が蜘蛛を連想しているというところが面白い。なお、ランダムハウス英語辞典によれば「spider flower」はグレビレアというヤマモガシ科シノブノキ属の常緑樹の総称としても用いられるようだ。同じ辞典ではクレオメは「spider plant」とされている。「spider plant」にはオリヅルランの意味もある。日本語の「オリヅル」が蜘蛛に化けてしまうところもまた面白い。

11月5日(金)

【思ったこと】
991105(金)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(9):教えることに内在的する楽しさ

 「文学部」をテーマとした講演会を聞きに行った。講演内容に機密事項は無いが学部内を対象としたクローズドなものであったので、ここではその一部、Web日記として取り上げても差し支えないと判断される部分について、私の言葉に置き換えた上で個人的な感想を述べることにしたい。

 まず、「文学部」の位置づけについて。文部省省令によれば、大学の学部名を羅列する時には文学部が先頭に来るように定められているそうだ。工学部や医学部が無くても総合大学とは呼べるが、文学部の無い大学は総合大学ではない、というお話があった。これらは文学部の教官を大いに元気づけるものであるが、省令とか設置基準のようなものは一朝一夕に変えうるもの。全国の大学の教養部が一斉に廃止されたごとく、文学部の将来もそう明るいとは言えない。やはり、文学部において行われる教育の理念や意義づけを、抽象的な美辞麗句ではなく具体的なレベルで議論していく必要性を改めて感じた。

 次にdisciplineについての考え方。いまの時代、どんなdisciplineにも学際性があり、研究者が学際的な分野に注目してオリジナリティを発揮していくことは当然であるが、学際とかバリアフリー、インターディシプリンというのは、あくまでdisciplineあってのこと。少なくとも教育場面ではdisciplineをしっかり守っていなかければならないということがよく分かった。

 大学改革が進む中で科研費をたくさん取ることがステイタスとして評価される傾向があるが、科研費はあくまで教官の個人研究費であって大学教育のために使える予算ではない。国民の税金をとって大学を運営している以上、大学は教育に責任を持たなければならず、教育に必要な講座費が確保できないようでは困る。このあたりの議論もよく分かった。

 質疑応答のチャンスがあったので、私は研究と教育のウェイトの置き方について次のような質問をしてみた(文言はこの日記用にかなり修正してある)。
 御講演の中で、教育を重視することの意義がよく理解できた。しかし現状では、教官の採用や昇進はすべて研究業績のみで評価される。講座費に代えて科研費や外部民間資金が重視されるようになると、教官はそれを獲得するために教育よりも研究にエネルギーを注がなければならない。
 その一方、いくら授業の質の向上やFDの問題に取り組んでも、業績面や予算配分上で何ら考慮されることがない。教養部廃止後は、教養科目は講座別に割り当てられたノルマとして課されている。このように教官の「研究個人主義」が助長され、教育が片手間に行われるようになうな傾向があるように見受けられるが、お考えを聞かせていただきたい。
 これに対するお答えは「私は大学に学生の嫌いな先生が居ることを知って驚いたことがある」、「教えるということはそれ自体が楽しみである」というような内容であった。私としては、やや意外なお答えであったように感じた。あるいは私が「教育活動に熱心に取り組むこと」と「業績評価や予算配分への配慮」を強調したことが、昇進と手当だけを目的に働くタイプのサラリーマン的発想として受け止められてしまったのかもしれない。

 確かに教育活動は、本質的には教えること自体の楽しみ、さらには学生の成長や卒業後の活躍といった行動内在的な好子によって強化されるべきものである。私は決してそのことをないがしろにしたわけではない。そのことを前提とした上で、なおかつ、教育活動の努力に応じて結果を与えるシステムを作ることが大切だと言いたかったのだが、あるいはうまく伝わらなかったかもしれない。

 私が日頃から主張している「教育活動の努力に応じて結果を与えるシステム」というのは、すでに実施されつつある「研究活動の努力に応じて結果を与えるシステム」と大した違いはない。研究活動の場合でも、本質的には研究すること自体の楽しみ、新たな発見や理論の構築、その応用の有効性の確認といった行動内在的な好子によって強化されるべきものであるが、それに加えて、ちゃんと研究をすれば予算配分が増え昇進にもつながるようなシステムが確立されつつあるのだ。教育面でも同じシステムを求めていくことはやはり大切で、学生の嫌いな教官の教育活動を付加的好子随伴性で強化しようというものでは決してない。

 私自身の場合も、卒業生が社会で活躍していることを伝え聞いたり、何かの機会に「長谷川先生の授業で教わった物の見方がたいへん役に立っている」などと言われるとたいへん嬉しいものだ。しかしそのことを授業活動の全体的な評価に結びつけるにはやはり無理があるだろう。ヘタをすれば、そういう卒業生の言葉を聞いただけで自己満足してしまい授業の改善向上に取り組まない教官だって出てくるだろう。

 今回講演をされた先生の場合、おそらく、「教育活動の努力に応じて結果を与えるシステム」を主張することが、教育活動を定量化できる部分だけで評価してしまう制度を生み出し、結果的に大学教育をゆがめてしまうことへの危機感が背景にあったようにも思える。このあたりがいちばんの問題点であることは私も承知しているつもりだ。時間が無くなったので、機会を改めて考えを述べてみたい。
【ちょっと思ったこと】
  • 東京までの往復の走行距離は1580kmだった。往路は三保松原や富士山五合目、復路は木曽路から御嶽山開田高原を廻ったので、正味は1500km以下であると考えてよいだろう。燃費(トヨタ・ライトエース・ノア2000cc、レギュラーガソリン)のほうは高速道路のみ走行時でリッター12.5kmぐらいだった。
【本日の畑仕事】
朝から雑用多く一度も立ち寄れず。
【スクラップブック】