じぶん更新日記

1997年5月6日開設
Y.Hasegawa
[今日の写真] セージ。いろいろな品種があるが、これは最もポピュラーなもの。コモンセージ、メキシカンセージかアメジストセージのいずれかであったと思う。今後しばらく、このような青系統の花と紅葉との対比が見頃。

11月4日(木)

【思ったこと】
991104(木)[教育]最近の大学教育論議でおもふこと(8):履修科目登録上限制は学生の勉学を促進するか(3) 「広く浅く」か「狭く深く」かというメタ選択

 10/28の日記で大学で履修科目登録可能数に上限を設けることを支持する意見として
最初に「保険をかけておく」程度の安易な気持ちで履修登録をたくさんしてしまうと、授業が難しくなってきた時にすぐ、「これをとらなくても別の科目に乗り換えればよいや」と投げ出してしまう行動が許容されてしまう。履修登録数に上限を設けておけば、いったん登録した科目についてはいくら辛くなっても最後まで頑張り続けなければ卒業できなくなる。

たくさんの科目を履修登録してしまうと少なくとも学年開始当初は、(リタイアを決断していない範囲での)すべての科目の準備学習に追われ、結果的に1つの科目の予復習に打ち込む時間が制限される。つまり、最初から上限を設けておけば、授業の空いた時間には図書館に通って履修科目の準備に打ち込めるが、たくさん履修していればその時間に別の授業に出席せざるをえない。予復習を怠れば当該科目を難しく感じるのは必然。そこで、最初から上限を設けて誘惑を断ち切っておこうという親心。
といった主張がありうることを指摘した。

 これらは、もっと一般的な職業や結婚相手の選択にも共通する問題を含んでいる。つまり、何かを選択するにあたって、とりあえず幅広く選択肢を探索して最適なものを見つけていくほうがよいのか、それとも、あまり目移りせず、いったんこれと決めたものについては、ゼッタイにダメだと分かるまではとことん頑張ってみようという姿勢で臨んだほうがよいのかという、メタ選択(=「選択」の選択)の問題と関係してくる。

 いろんな可能性を試してみるという前者のタイプは、「広く求める」ことのメタ選択ということになる。もちろん、狭いよりも広いほうがよいには決まっているのだが、時間が無限にあるわけではない。結果的に「広く」と裏腹に「浅く」求めることになりかねない。

 例えば先日、TVニュースで、ポケベルで短期の仕事を紹介するビジネスが人気を集めているという話題を取り上げていた。いろいろな仕事を体験することで本当に自分に合った仕事を見つけようとしている人が多いのだという。しかし、こういう形で、短期間だけ従事してみたところで、その仕事の本当の面白味が分かるかどうかは不明。伝統工芸などは、10年どころか20年、30年と打ち込むことでやっと本物の面白味(=行動内在的好子)が体得できたという場合さえある。

 結婚相手を探す場合でも、いくらお見合い相手を増やしても、浅い交際の中では相手との本当の相性など分かるはずがない。むしろ、特定の人と深く交際するなかで相手の長所も短所も露わになり、相性というのは最初から決まっているものではなくお互いの努力によって作り出すことに意義があるのだということに気づく場合もある。極端な場合として、船が難破して男女2人だけが無人島に流れ着いたとすると、その2人の初期条件がどうあれ、生き残りのためにお互いが協力するなかで自然に愛情が芽生え、理想のカップルになりうる可能性が与えられているとも言えよう。

 いまの世の中、学問も仕事も人間も複雑化してしまっているだけに、ちょっとかじった程度では逆に思いこみを助長するだけになってしまう場合もありうる。といって、これだと決めて頑張ってみることには、結局じぶんには不向きであったというリスクがつきまとう。「広く浅く」か「狭く深く」という「選択」を「メタ選択」と呼んではみたものの、結局はケースバイケースで対応していくしかない。履修科目選択に上限を設定することに関しても、そのメリットとデメリットを具体的に掲げて検討していく以外に道はなさそうだ。
【ちょっと思ったこと】
  •  11/4のNHKニュースによれば、東京葛飾区の公益質屋が来年3月、職員(公益質屋なので、葛飾区職員が住み込みで運営していた)の定年に伴って廃止されるという。私が子供の頃は至るところに質屋があったように記憶しているが、いわゆる「サラ金」の台頭によって質屋の利用者は激減し、都内の(公益?)質屋は4軒を残すのみだという。

     質屋の良いところは、何と言っても、無理なく金を借りられるところだろう。「質」という名の通り、お金を借りるためには担保となる品がいる。万が一返済できない場合は「質流れ」となるが、それ一部の悪徳「サラ金」や、最近問題となっている商工ローンのような過酷な取り立ても無い。このほか、最初から「質流れ」を前提として不要品を買い取ってもらうこともできた。

     こうした質の制度は、日頃から物を大切に使い、不要となっても質屋を介して別の人に活用してもらうという、リサイクルシステムとして有効に機能していたはずだ。むしろ21世紀に求められているシステムではないかと思えるし、健全な資金融資システムとしても捨てがたい。スタイルを変えてなんとか生き残りの方策を見いだすことはできないものだろうか。
【本日の畑仕事】
水まき。夜、トマト、レタス、小松菜を収穫。
【スクラップブック】