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9月30日(水)

【思ったこと】
980930(水)[心理]ふたたび血液型性格判断(5):なぜ「無い」から出発するのか
 9/29の日記に提示した留意点のうち帰無仮説の問題について考えてみたいと思う。なお、これまでの連載は、日記よりやや更新が遅れるが、血液型性格判断資料集にも掲載している。

 帰無仮説というのは、複数の群の間、もしくは個体内での条件差などについて「群間(条件間)には差が無い」という仮説をたてておいて、t、F、χ2などの値が一定以上の大きさに達したときにこれを棄却するという統計的検定の原理に出てくる言葉である。

 帰無仮説が棄却された時の一般的な結論は、「ここで生じた差が偶然に生じる確率はきわめて小さい」ということであり、これを根拠にして何らかの効果の存在を確認していくことになる。血液型性格判断について言えば、特定の行動傾向や性格についての血液型の比率の偏りに有意な差が見られた場合には、「偶然によってそのような偏りが生じる確率はきわめて小さい」と主張することがこれにあたる(但し、具体的な特性について安定した有意差が得られない限りは、直ちに「その特性に関して血液型と性格の間には何らかの関連がある」との結論を出すわけにはいかない。念のため。)

 この手法で、帰無仮説が棄却されなかった時の正しい結論は、「ここで生じた数値上の差が偶然であるという可能性は捨てきれない」ということであって、「効果がないことが実証された」ということには決してならない。棄却域を分布の両端(片側検定では片端)に設定する以上、こういう結論しか出せないのはいわば宿命であって、言いかえれば、通常の統計的検定は原理的に「偶然性」を積極的には主張できない、血液型性格判断に関して言えば、「ゼッタイに関係が無い」などとということは実証できないということを意味している。

 よく、心理学者は「血液型と性格は絶対に関係が無い」と否定していると言われるが、ゴールデン血液型倶楽部の表を見ても分かるように、みなが「絶対に無い」と主張しているわけではない。また、これもよく誤解されるが、「血液型性格判断はなぜ当たっていると思われるか」という研究が「関係が無い」という前提が無ければ進められない研究だというのは、ハッキリ言って誤り。まったく次元の違う問題である。「人間の行動には性差が無い」という前提が無ければ性差別、ジェンダーの問題は研究できないのか。そういう意味では、一部の心理学者が“完全に「無い」”ことを前提にしているかのように決めつけることには問題がある。
  • だって、そうじゃないですか。「血液型性格判断」が当たっていると思っている人は、データを詳細に検討した上で純粋に理性的に「当たっている」と結論づけたワケではない。単にフィーリングで当たっていると感じているだけでしょう。そういうフィーリングを生み出す原因がどこにあるのかを研究するにあたって、完全に無いなどという前提はまったく要らない。
  • 私自身がこの件について過去にどのような主張をしたのか、特に初期の
    • 長谷川芳典 (1985).「血液型と性格」についての非科学的俗説を否定する.日本教育心理学会第27回総会. [東京都千代田区・国立教育会館]
    • 長谷川芳典 (1988). 血液型と性格 −−−公開講座受講生が収集したデータに基づく俗説の検討,長崎大学医療技術短期大学部紀要, 1, 77-89.
    の2点については、私の資料集に早急にアップしたいと思っている。昔のワープロ文書を保存したフロッピーディスクが無いので、OCRか音声認識で再入力するしかできないのが辛いところですなあ。

 では、立場を変えて、「関係が無い」が実証できないのだから、「これも有る」、「あれも有る」と言いたい放題でよいのか。言論の自由という点からは許されるとしても、これは科学的態度としてはふさわしくない。「無い」を出発点として、偶然とは言い難い関係性を地道に探索していくのが科学であって、直観やフィーリングだけで血液型人間「学」なるものをうち立て、「血液型の違いは一目でわかる」(例:能見正比古, 1973の目次)とか、「血液型これだけ知ったら嫌われる」(能見俊賢氏の1984年の著書)というように、本を売ることを優先するような「血の商人」的な態度は許されない。いや、占いなら大いに結構。勝手にやってくれればよい。しかし、いやしくも科学を口にするのであれば、まずは有意差が確認された特性についてだけ、その一般性や安定性を地道に検討すればよいのであって、それ以外の「本を売るための宣伝」は一切取り下げるという態度に貫くべきであろう。心理学者たちの多くが「血液型人間学」を標榜する人々を批判してきたのは、「血液型と性格は関係がない」からではない。こういう商業主義優先の似非科学の「研究」態度を批判してきたのである。

※月初めの日記では「日記猿人」がらみの話題を取り入れることを恒例としているので、次回の連載は数日後あるいはそれ以降となる見込み。[統計学から離れた場合に「無から出発すること」がどういう意味をもつのかについて考察する予定です]
【ちょっと思ったこと】
  • 衛生上の問題から、我が家ではここ数年生卵を食べたことがなかった。今日の夕食のすき焼きでは、久しぶりに生卵が出たので妻に聞いてみると、これは検査済みの高価な卵なのだという。
    で、さっそく割ろうとしたところ、グシャッとつぶれて殻まで混じってしまった。そう言えば、ここ数年、生卵を割ったことが無かった。家族が帰省して自炊するような場合でも、コレステロールが気になる私は自分一人で卵を食べることは無いからだ。もっとも、今日の卵は特別殻が厚かったようにも思える。
【新しく知ったこと】
[Image] 9/30の早朝、キノコの写真をとるために大学構内を徘徊していたところ、事務局前の木々の周りで、数十匹の白い蝶が乱舞していた。臨死体験とか何かの奇跡を描いた映画シーンを連想させるほどの迫力であった。残念ながら、私のデジカメにはこういう動くもは写らない。しばらく待って、地上に降りてきたものをやっと撮影したのが、左の写真。果たして蝶なのかカゲロウなのかもよく分からない。蝶だとすれば、ミヤマシロチョウがいちばん近いように思えるが確証はない。どなたかご存じの方がおられたら、ぜひ掲示板でお教えいただきたい。
<10/1朝追記>10/1朝にも同じ場所及び文学部と講義棟とのあいだの中庭で数十匹の乱舞を確認した。
【夕食後の夫婦の散歩】22日目。妻の歩数で3746歩。
  • 土砂降りといってもよいほどの雨の中、農学部・薬学部一帯のキノコ見物。
【生活記録】
【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】