【思ったこと】
980910(木)[一般]信仰について(その3):修行 多くの宗教には、一定期間、俗世間から隔離された場所で修行をつんだり瞑想にふけるシステムが取り入れられているようだ。日本の場合であれば、短期間の座禅修行、大峰山などで行われる行者の修行、また最近NHKの日曜朝の番組でも取り上げられている四国八十八カ所巡りなど。もちろん、比叡山などで僧侶が命がけで行う難行苦行のたぐいもある。 7/26の日記にちょっと書いたように、タイでは、もっと国民的な行事として、3ヶ月程度の出家の制度が定着しているという。NHKスペシャルの再放送「ブッダ・大いなる旅路」の4回目によれば、企業のホワイトカラーたちが、ころ合いを見計らって長期休暇をとり、出家する。修行を終えて還俗したのちには、格段に地位があがるという。番組では、国営の航空管制会社に勤める男性が3カ月間の修行に加わり職場に復帰するまでの様子を伝えていた。 私自身はそういう修行をしたことが無いので、あくまで第三者的な推測になってしまうのだが、日常社会から隔離された空間で一定期間特別の生活をするということは、宗教と切り離してみても大いに意義のあることだと思う。 これを考える前提として、日常社会における我々の行動には本質的な自由はなく、我々は常に種々の行動随伴性によって制御されているという現実に目を向ける必要がある。7/6の日記でふれたように、我々は、しょせん、執行待ちの死刑囚であり、「結果」の奴隷であって、本質的な「じゆう」は存在しない。固定的な行動随伴性に縛られた生活環境の中で観念的にいくら「自分とは」などと考えても、その網から逃れ出ることはできないのである。 そこで、全く別の閉じた世界に身を置いてみる。すると、いままでと同じような行動を高頻度で自発しても、そこにはもはやその行動を強化する随伴性が存在しないし、逆に罰を受けることさえある。それによって、いままで相対的に頻度の少なかった行動がより多く自発されるようになり、これが「別のじぶんの発見」につながる。そしてもとの職場に復帰し、もとの行動が再強化されるようになった時でも、これまで多発していた行動がどういう随伴性によって維持されてきたのか、その行動によって他の価値のある行動がいかに抑えられてきたのか、といったことに気づくことになる。本質的な「じゆう」は獲得できない宿命にあるとしても、随伴性の鎖の組み合わせを多少なりとも変えることができるのであろう。 宗教的な意義づけがどうあれ、一定期間の修行というのは、自らの行動随伴性の鎖を操作する壮大な実験計画であり、理にかなった行動見直し・改善実験であるということができるだろう。 |
【ちょっと思ったこと】
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【新しく知ったこと】
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【生活記録】
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【夕食後の夫婦の散歩】第5日目:妻の歩数で2570歩、私の歩数で1896歩。
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【スクラップブック(翌日朝まで、“ ”部分は原文そのまま。他は長谷川による要約。【 】部分は簡単なコメント。)】
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