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昨日の日記

3月20日(金)

【思ったこと】

980320(金)
[一般]抽選は公平をもたらすか
 年度末を控えリストラで何とか生き残りをはかろうとする企業が目立つこのごろであるが、大学でも、学部に割り当てられた複数の教官ポスト分の定員削減をどういう形で実現するかといった議論が行われている。定員削減といっても、現職の教官のクビを切るわけにはいかないので、特定の講座で退官者が出た時に後任を補充しないという形で削減をはかるわけであるが、どの講座も教育・研究に責任をもつ必要から、そう簡単に譲り合うわけにはいかない。数時間の会議を何度も開いて、少しずつ合意点を見出していくことになる。
 この定削について話し合う委員会で、当初、削減をする講座をくじ引きで決めればよいという案が出されたことがあった。委員の一人である私は、これに猛反対し、一部の委員の方の反感をかったかもしれないが、結局、別の形の方式が委員会案としてまとめられることになった。
 私の反対の理由は大まかに言えばこういうことだ。
くじ引きというのは、何ら公平性を保証する手だてではない。単に、文句を言わせないための方便にすぎない。くじ引きをするまでのプロセスがいかに公平であったとしても、結果として生じる不公平は回避できない。
くじ引きのような方式は、他にいかなる合理的な解決法も見出せない時の最後の手段としてとるべきものであって、教官組織の配置のような重要な問題の解決を安易にクジに委ねることは大学の意思決定方式としてはふさわしくない。
といった内容であった。
 確かに、抽選という方式は、人類が長年の歴史のなかで発明した対立回避のための生活の知恵であろう。ただ、それは安易に採用されるべき方式ではない。安易に多数決に頼ることについてはよく批判されるけれども、抽選についてももっと議論が必要である。クジで決めようとするのを拒否すると大人げないなどと批判をする人がいるが、それは決める内容にもよる。一般に、「外れてもともと」というような性格のものは、クジで決めても問題ないだろう。半面、外れた時に大損害を被る人が出るようなケースでは、抽選は最後の手段として残しておき、出来る限り別の方策を考えるべきである。

 少々脱線するが、昨年の8月4日付けのじぶん更新日記(8月分の日記は、現在、2-4月の「彗星日記」掲載によるファイルサイズ肥大化のため、サーバー移行作業停止中。彗星日記削除後にアップの予定)で、
n人(n≧3)がn個のコップを使って酒を分ける場合にも、絶対に文句が出ないような方法はあるだろうか。
というクイズを出したことがあった。この種のクイズを出すと必ず、「適当にコップに注いだあとで、くじ引きで割り当てればよい」と答える人が出てくるものだが、知恵をしぼってみると、(完璧とは言えないが)配分の結果にも文句が出ない方法があることが分かる。最初にとりあげた、教官の定削の話でも、その後、合理的な基準に基づくローテーションの方式が学部長案として提案され、抽選に頼らずに決着をはかることができたのである。

 抽選によって結果を与えるという方式は、まかり間違えば個々人の努力をないがしろにすることにもなりかねない。時と場合にもよるけれど、個人の努力によって結果が左右されるような事態では、極力、努力の程度に応じて良い結果が伴うような仕組みを採用していくべきである。それがないと、努力しても無駄だと悟った隠居老人とギャンブラーばかりの社会が出来上がってしまう。
 余談だが、今年の1月に息子が滑り止めで受験した中学のなかに、いったん入学試験成績によって一次合格者を決め、その中から抽選で最終合格者を決めるという二段階の選抜を行っている中学があった。息子自身はすでに第一志望校に合格していたので抽選は辞退させてもらったが、仮にここを第一志望としていて抽選に外れたらどんな気持ちになったものだろうかと、ちょっと気になった。この学校は、教育学部附属の学校なので、おそらく普通の公立学校と同じレベルの生徒を抽出する必要があるとの目的で抽選をしているのだと思うが、それならそれで最初から無試験でくじ引きだけすればよいと思う。
【ちょっと思ったこと】

980320(金)
[一般]東大合格者高校別ランキングと都立高校
 3/16頃の幹事クリタのコーカイ日誌さんの日記で“「東大合格者全氏名発表」なんて、もうやめない?”という話題が取り上げられていた。きょうたまたま歯医者の待合室にこの時の雑誌があったので、目を通してみた。
 こういうランキングにちゃんと目を通すのは、かれこれ20年ぶりぐらいになるだろうか。もともと私は中学の頃から東京嫌いだったたので東大に行きたいと思ったことは一度もなかったが(まあ、行きたいと思っても、入れるかどうかは別問題だが...)、じぶんの出身高校からどのぐらいの数の同輩や後輩が入学しているかは多少興味があり、高校卒業後の数年は、ちゃんと雑誌を買って眺めていた記憶がある。

 久しぶりにこのランキングを眺めてまず驚いたのは、昔は都立高校に入学できなかった生徒が滑り止めに入る所と言われていたような高校が複数校、ランキング上位に含まれていることであった。そのほか、名前の呼び方さえ分からないような高校が20位以内に2校もあった。その半面で、もっと驚いたのは、上位30校までのなかに都立高校が1つも入っていないこと。特に20位までには、公立が1つもない(国立は除く)という事実であった。

 私が高校に入学した頃というのは、ちょうど、東京の都立高校が従来の一校のみの志望制から、ブロック型の志望制へと変更された直後であったように記憶している。それまでのエリートコースというのは、麹町中学から日比谷高校と進むコースであった。私のような世田谷区在住者は日比谷高は受験できないので、是が非でもという場合は親戚などを頼って「寄留」する。もしくは戸山、西といった都立高校に進むのがハイレベルのコースされていたようだった。ところが、グループ選択制になってからは、どんなに勉強しても、確実に日比谷に入れるとは限らなくなってきた。そこで、灘、麻布、開成といった私立の中高一貫校あるいは当時の東教大附属、同駒場、学芸大附属という国立御三家を希望する者が次第に増えていったと記憶している。しかし、東大だけが大学ではないとは言え、都立高校からの進学者がここまで減っているとは思いも寄らなかった。

 東京都の住民税を払っているわけではないので都立高校のことをとやかく言う立場にはないが、上記の「抽選は公平をもたらすか」との関連で1つだけ言わせて貰えれば、高校受験のための勉強をいくら一生懸命やっても行きたい高校が自分の意志で決められないような入試システムは、結局それに関わる高校全体への魅力を無くしてしまう。東大だけが大学でないことはもちろん承知しているが、日比谷高校が隆盛を極めていた時代に比べて都立高校の全体のレベルが低下し、浪人をしなければ地元の国立大学(まあ東大と言わずとも、東京工大、一橋大など)に入れなくなっているようであれば、やはり問題だろう。

 余談だが、「東大合格者全氏名発表」はプライバシーの問題があるので私も反対だが、高校別のランキングを公表することは、中高校への受験生にとっては1つの判断材料になるので必ずしも反対しない。ただ、東大合格者だけが高校を測る物差しではない。もっと長期的に見た、大学卒業後の就職先の特徴とか、漫画家の輩出率、海外の大学への入学率、学校の周囲の環境についての評価、中途退学者の比率、校内暴力事件発生率といったさまざまな物差しで評価されなければならない。大学でも自己評価とか他者評価などが頻繁にとりざたされ、中には量重視の一面的な業績評価に対する批判もあるが、高校を多面的に比較評価自体することは、その高校の発展のためにも、受験生への資料提供の意味でも、基本的には否定されるべきでないと思っている。
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