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昨日の日記

3月18日(水)

【思ったこと】

980318(水)
[教育]校長センセーは偉くなければならないか
 Focusの新聞広告に「少年A卒業式当日にストリップ見物の校長」という見出しが載ったことについてゴリさん(該当ページはこちら)を初め複数の日記作者がこの話題をとりあげておられた。3/18の19時以降はチェックしていないが、おそらく何人かの方がお考えを述べられているものと思う。
 その後、複数の報道を通じて、もう少し詳しい情報が伝わってきた。それによれば、話題の主は神戸市須磨区の連続児童殺傷事件で医療少年院に送致された男子生徒が通っていた市立中学校の校長(60)。卒業式のあった13日夕、大阪市内のストリップ劇場で約4時間にわたってショーを見物し、舞台上で野球拳をしたという。またこれについて市教育委員会は18日、「軽率な行為で社会的な信頼を損なう」として校長を謹慎処分にしたということだ[一部3/19朝日新聞報道により追記済]。

 このことについてはゴリさんの日記への感想という形で裏日記で述べたように、そもそも(聖人ではない)成人たる校長が勤務時間終了後に合法的な娯楽を楽しんだことのどこが悪いのかという問題から問い直して見る必要があるように思う。女性の裸を金儲けに利用すること自体は別問題として論じる必要があるだろうが、少なくとも現時点においてストリップ劇場は法律的に容認された風俗営業の一種であり、成人に達した男性がそういうところで日頃の鬱憤をはらそうとしたからといって、何ら咎められるべきところはない。「校長」の社会的信頼を損ねたのは、校長の行為そのものではなく、そういう個人空間に勝手に進入し、おそらく本人の了承を得ないままに勝手に画像を公開したFocusの側にあると言ってもよいだろう。

 もちろん、私の個人的な感覚からすれば、3月末で定年退職するような高齢のお方が、よりによって最後の卒業生を送り出した当日にストリップ劇場に行って舞台上で野球拳をするなどというのは、合法的とはいえ尋常とは到底思えない面がある。しかし、それだけ突飛なことをされたのには、よほど深い背景があったのだろう。
 大学などで事務官が定年退職されるときのお決まりの挨拶は「大過なく定年を迎えることができ...」であるが、この校長にはこの台詞は使えない。神戸の事件で学校側に何の落ち度もなかったとは言えないが、校長個人の力で未然に防ぐことは殆ど不可能であったろう。むしろ、男子生徒逮捕後の対応では並々ならぬストレスを受け、ようやく卒業式で一段落した所で、思い切りバカ騒ぎをしたかったのではないかと同情したいところもあるぐらいだ。

 今回、校長が処分を受けた背景には、教師は聖職であり、聖人君子たる校長を敬い慕うことが道徳教育の基本につながるとする儒教的(?)な教育観が根底にあるように思う。しかし、いまの時代、そんなに聖人君子をいっぱい作ってもしようがない。聖人君子を尊敬しそれを見習わせるというような教育方式は、とっくの昔に破産している。
 むしろ、世の中の人間は、みな長所短所をもち、時には悩み、時には誤りを犯すものであるという事実を受け入れ、その上で、一緒に悩んだり、一緒に問題行動を解決していくプロセスを考えることのほうが大切である。
 もし、担任の先生が同僚の先生に失恋して悩んでいたら、生徒も一緒になって考えてやればよい。公私混同やセクハラは困るけれど、勤務時間外の私生活で悩みがあれば逆に生徒に相談を求めるということがあってもよいのではないかと思う。今度のケースでも、「学校教育には失望した」とか「校長先生は信頼は裏切った」という風潮をつくるのではなく、「校長先生も大変だったなあ。野球拳でストレスを解消したい気持ちは分かるなあ」という声が卒業生のあいだで広く聞かれるようになることを望みたい。
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