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2月27日(金)

【思ったこと】

980227(金)
[教育]定期テストの全廃措置に思うこと
 2/25の朝日新聞によれば、栃木県鹿沼市の市立中学校が、新年度から中間、期末の定期テストを全廃することを、24日までに決めたそうである。このことについては、ゴリさんが2/24付けの日記で「税金ドロボー」と題してその問題点を指摘しておられたが、私自身も別の観点からこれにふれてみたいと思う。
 初めに、この種の問題で注意を要するのは、新聞記事やテレビが、全廃という決定に至った文脈を正確に報道していない可能性がある点である。
昨年5/29に「埼玉県の小学校で男性教諭が、生まれた直後の子ウサギを児童が見ている前で校庭の花壇に埋め殺していた」という報道がされたことがあった。その報道のあと、市教育委員会には2日間で50件あまりの電話とファクスが寄せられ、ほぼ全部が、「教諭をやめさせろ」という抗議だったそうだ。ところが父母の反応は逆で、教諭が処分されないよう求める陳情を集め始めたそうである。この経緯は、「みる・きく・はなす:ウサギ生き埋め事件の真相」として10/16の新聞に記されている。

 今回の決定に関しても、その中学で最近なにか問題となるような事件があったのか、それとも単に校長が極端な「競争否定主義」の思想の持ち主であったのか、何も伝えられていない。そういう意味では、ここでのコメントも、伝えられた範囲での一般論的な内容に限定せざるをえないところがある。

 さて、新聞によれば、定期テスト廃止の理由は
  1. 点数を競うことで、競争主義を助長。
  2. 子供の心に余裕をなくし、問題行動に走る生徒も出る。
  3. テスト前だけ勉強し、普段の学習がおろそかになる、
という3点にあるらしい。この学校で何が起こったのか分からないが、一般論として競争主義や問題行動の原因が定期テストにあるとするのは少々飛躍があるように思えてならない。
 例えば、私自身も経験があるのだが、期末テストの前に生徒たちが協力して勉強するということだってできるではないか。みんなで集まるにしても、小テストや不意打ちテストに備えるよりは、定期テストというような具体的な目標があるほうが協力しやすいではないか。もちろん、中学生であるから、ほったらかしにしておけば競争主義に走る恐れはありうる。しかしそこは学校の指導次第であろう。定期テストをやめるという消極的な方法ではなくて、定期テストに向けてどうやったら力を合わせて勉強するような行動を形作れるのか、というもっと積極的な方針で真正面から取り組んでもらいたいと思う。
 定期テストが原因で子供の心に余裕をなくなり、問題行動に走る生徒も出るという論法も文面を見ただけでは納得しにくい。余裕を与えるかどうかは授業のレベルの問題である。余裕を無くすほどハードであるならばレベルを下げれば済むことである。むしろ、定期テストのような具体的な課題にどう取り組むか、これを知らない生徒の方が問題行動に走りやすいのではないかと思う。
 テスト前だけ勉強するというのも、定期テストの有無とは関係のない、指導技術上の問題である。通常の授業の中でも小テストを行い達成度を確認していけば、普段の学習がおろそかになるというような問題は、起こらないはずである。ただ、小テストだけでは細切れの知識の達成度しか測ることができない。何かしらの形で、まとめのテストを行う必要がある。まさにそれが定期テストというものではないだろうか。

 学問そのものは、それを学ぶこと自体によって強化されるべきものである。つまり、新しい価値を得る喜び、疑問を解決する喜び、それを活用することにより今まで以上に有効な働きかけができる喜びなどによって強化されるべきものである。しかし、趣味の場合でも同じであるが、最初から楽しくてたまらないというようなものは、まずあり得ない。ピアノを楽しむために、単純なドレミの練習から始めなければならないし、スキーを楽しむには、まず簡単な曲がり方、止まり方、安全なころび方から練習しなければならない。
 同様に、英語で楽しく会話したりシェークスピアを原書で読むためには、ある時期にはイヤでも英単語をたくさん覚えなければならない。数学の定理を証明する楽しさを学ぶために、その基本として計算や方程式の基礎を身につけなければならない。そのような、あまり楽しくない時期の練習を動機づけるためのひとつの方法として一定限度の競争を取り入れることは決して誤りではないと思う。

 他者との相対比較ではなく、自分自身の学習の達成度に注意を向けさせること自体は良いことだ。ただ、もし、競争はなにがなんでも悪であると考えているとしたら問題である。
 先日の冬期オリンピックでも如実に示されたように、スポーツでは相対比較が日常的に行われているではないか。決して自己の記録更新だけに注意が向くものではない。一例をあげれば、日本が金メダルを獲得したショート・トラック五百メートル男子では、首位グループよりも、第二グループの方が最終記録はよかった。相対比較を重視したからこそ、金メダルが取れたのである。このほか一般に、団体競技の多くは相対比較で優勝を争う。相手がいなければ、野球の試合はできない。打者は投手と競争することによって自己を更新するのだ。
 スポーツの世界で競争することと、勉強の過渡的な段階で競争することの間には本質的な差異はない。あるとすれば、前者は観客に感動を与えるが、後者には外的なアピール効果、特にプロセスの段階でのアピール効果が乏しいというだけのことだ。もっとも、入試の監督などしていると、受験生のひたむきな取り組みに心を打たれることがある。

 教育場面で要請されるのは、その集団内の競争をなくすことではない。むしろ適度な競争場面を多様に設定しておいて、その中でいかに相手の努力をたたえるか、自分自身の努力と達成に注意を向けさせるか、競争に敗れた者にどう配慮するか、というような点にあるのではないかと思う。
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【生活記録】
  • 2月最後の土曜は、大山へスキーに行く予定。朝6時半頃に岡山を出る予定にしている。自分で言うのも変だが、出発直前にちゃんと日記を更新しておくというところに「日記廃人」まがいの執念が感じられる。
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